- セルフ骨格メイキング・ジュガ 杉山美紀 S.D.L|整体運動 - 札幌|美健幸のお手伝い杉山美紀
~遊び心に華を抱き歩む~
杉山 美紀 Profile
その場で咲く。
そこから新たな種をまき
未来を創る。
第一章:
虚弱な身体と心
~運動オンチといじめ~
幼少の頃は、身体が弱く入院生活を数度となく繰り返しました。
久しぶりに幼稚園に登園したら
「美紀ちゃん、お部屋が変わったのよ。」と、階段を上り
前とは違う部屋へと案内されました。
その時、初めて進級を知りました。
そのような幼少の頃でしたので、
その後も、運動が苦手で徒競争はいつもビリ。
中学時代は、運動オンチを略して「うんち」と呼ばれるほどでした。
第二章:
社交ダンスとの出会い
~姿勢を正し、挑戦する気持ちが芽生える~
そんな私の
社交ダンスとの出会いは20歳のころです。
脊ちゅう側湾症からの姿勢の悪さを苦にしていたところ
周りからの勧めがあり始めました。
2年ほど教室でレッスンを受けたり、
ホールなどで楽しんでいました。
ダンスに出会えたお陰さまで
初めて身体を動かすことで得られる楽しさや
私でも出来るんだ!という
自信も生まれました。
気を良くして、
その頃流行り出していたエアロビも
初めてみましたが
二人で踊るという、Communicationで
成り立つ社交ダンスの方が
私には合っていたようで、
自然と社交ダンスの方に
エネルギーをそそぐようになりました。
そうこうしているうちに
ダンス教室の先生からプロ競技に出場しないか?と勧められ、
それより、昼は会社員、
夜はダンスの練習という
二足のわらじ生活に入りました。
当時の主な競技成績は
全道クラス別競技会
プロノービス、D級、C級
2年で、プロB級ラテン5位
1988年毎日杯争奪ダンス選手権大会
(この大会の成績のみ、
セミファイナル以上を公言出来る
権威ある大会)
プロラテンセミファイナル
このように
出る競技会すべて、
入賞を決める破竹の勢いでした。
が、しかし
その後、カップル解消や諸般の事情により
A級目前にして、
ダンスを離れることになりました。
第三章:
フィールドを変えても、
出来ることを精一杯。
~経験は、広域に活かすことで、宝となる~
それより、会社員としてのミラクルが起こり
はじめとした幹部の秘書
(事業部制・子会社化に向けた激動期でありました)
経営企画・新規事業開発など経験させて頂き
プライベートでは
結婚、育児、退職、親の面倒などで
15年以上過ごしました。
他人であった人たちと一つ屋根の下で
生活していたこともあり
様々なことがありました。
第四章:
まだ終わりでは無い。
私だからこそ
出来る道の幕開
~どうせなら、
人生を終える間際に後悔せずに済むように
やっておきたい。~
それらが、一段落したので
やり残していた感があるダンスを
また、やってみよう!と
アマチュア生徒としてリスタートしました。
ずっと、そんなスタンスで良いと
思ってましたが
ダンスを離れている間に
ダンスに対する想いは、
当時とは違ったものになっていることに
気づきました。
自分自身も、世の中も変化を遂げているのに
ダンスの世界は、
余り変わってない気がする。。
変化が余り無いということは、
私にとっては
馴染みやすいように思われますが
それは全くの逆でした。
ダンスの先生として、
一番輝かしい30歳代を
ダンス以外で過ごした私に
何が出来るのかわかりませんでしたが
40歳を
もうすぐ迎えるような頃ではありましたが
インストラクターの資格を再取得し、
プロとしてそろそろダンス活動開始!
そう思っていた矢先に
不幸が続き
頂いたオファーをお断りするなど、
ダンスと不遇な期間を、また過ごし
もうダンスとはご縁がないと
半ば諦めかけていました。
第五章:
想い願い続け、
やっとダンスの女神が
ほほ笑みだす。
~まずは、やってみる。
それから創りだしてみよう~
ところが、思いがけず
2011年、
道内では前人未到の元チャンピオンの
佐藤伴幸先生から、
佐藤伴幸ダンススクール所属の
インストラクターにと、
お声掛け頂きました。
しかし、その頃より、
未だ原因不明の脳の運動野に問題を抱え
さらに、
家庭の事情などで、他のプロの皆さんより、
ダンスに関わる時間=練習量は
比べ物にならないほど
格段に少ない状態でした。
それに加え
ダンス一本やりで
北海道随一のクオリティの中で
生きて来ている先生たちとは、
考え方などの温度差もあり、
とても厳しいものになるだろうと
不安も抱えていました。
でも、今を逃しては、
もう2度とこのようなチャンスには
恵まれないだろうと考え
プロとしてのリスタートを決意しました。
第六章:
私だからこそ
出来ることがある。
400分の1の存在になる!
~視点を変えることで、観える現実が変わり、
未来も変わる~
当時の
北海道プロダンスインストラクターは、
400名ほど名簿上にいらっしゃいました。
そこで、私は、
その400名ほどの誰もが、
やってないことをしてみよう。
誰もしていないことが出来れば、
今までに無い風穴を開けることになる。
何故、そう考えたのかは
このままだと、社交ダンスの世界は
どんどんと縮小していくだろうという
危惧を抱く未来予想が
私の中にあったからです。
第七章:
スタンダードなやり方と、
私独自のあり方の
二足のわらじを履く
~同じダンスを、
所属プロと個人事業に分けて展開。
次世代に向けた「多様性」を先駆ける~
私が、大勢多勢とは違うあり方とやり方で
何か一つでも成せれば、
10年後のダンス界にとって、
ひとつの安心材料になるのでは?
それは
未だかつてだれも、
挑戦したことが無いことで。
そうすることにより、
「牌を奪い合うことをせずとも、
ダンスに関って行ける」
そう考えがまとまり、
方向性も観えて来たので
コネや、ツテも、何もない中、
たった一人で暗中模索をして参りました。
単身で異業種交流を重ね
ダンス以外の学びで
様々なことのカバーをし、
肉付けをしつつ
他の業種や、主婦だったことで
むしろ観えていることを活かす。
それを「あり方」とし
さらに学んで行けば
まだまだ、
社交ダンスの魅力をお伝えしていく方法はある。
そのように考えたことの実践を始めました。
トライ&エラーの繰り返しでしたが
◆踊らず、伝える「姿勢セミナー」
◆姿勢セミナーを通じて、
さらに気づいた
身体心理を具現化した「セラピー」
◆スポーツでは無く、
「文化」「芸術」枠での社交ダンス一般公演
(当時、文化芸術と捉えることも、生演奏も一般向けの公演は無かった)
などで、
道産子魂でしょうか?
荒れ地を開拓しながら、
明日を切り開いて参りました。
第八章:
トラワレずな「あり方」で、
可能性は無限大
~不自由を楽しむことで得られた、
無限にひろがる自由~
業界内で従来よりの既存的なあり方である
教室インストラクターとしての活動は
2017年4月をもちまして、
卒業させて頂きました。
2足のわらじを脱ぎ
現在は完全フリーランス。
~インプレッションデザインワーク~
S.D.L 代表 として、
私のこれまでの生き方、あり方。
私そのものをお伝えしてます。
あり方を整えて行くことで
今までの経験して来たことが
活かされて来ます。
生きて来ます。
どんな時にでも、
楽しむ心があれば
道は開けて来る♪
視点を変えることで得られる、楽しさや喜び
逆転の発想で得られる、楽しさや喜び
小さなきっかけを掴むことで得られる、
楽しさ、喜び
それを、
お伝えしていくことが、
今の私の生きがいです。
それが私の出来ること♪
心が躍る「舞活」「食彩活」「楽活」「企活」
を、経て
現在、
Jugahで
オトナ女子の
美健幸を取り戻すお手伝い
をさせて頂いてます。
是非みなさんも、
遊び心を持って
充実した人生を歩んで参りましょう☆彡
(公財)日本ボールルームダンス連盟 会員
北海道プロダンスインストラクター協会 プロフェッショナルダンス教師
一般財団法人江別市スポーツ振興財団認定登録インストラクター
jugah instructor
インターナショナルボディトークアソシエーション ボディトークアクセステクニシャン
ALOMA LIFT®セラピスト